評価と瞑想
物事をどういう風に受け取っているか。受け取り方によってどこに影響が出るか。
私は気が付いたら、入ってくる色々な情報について自分で評価をした上で受け取るようになっていた。
学生時代にはなかった。むしろ評価せずにそのまま受け取ろうとしていた。自分では評価できるとも思っていなかったし、評価することはおこがましいとも考えていた。他所の事は他所の事で、自分には関係ない他人の事についてあーだこーだと良し悪しを評価して話をするのは失礼だと考えていた。当人がやっていることに対して当人が納得しているんだろうし、当人は実は納得できていなくてもその人なりの背景があってそうなっているのだから、外野がどうこう言うのは意味がないことだと考えていた。
そして社会人になった。
色々なことで評価して自分のスタンスはこうだ、と定義した上で話しをする人がほとんどで、特に強烈に判断する人の傍にいた。良し悪しを、自分の経験と感情と価値観によってすぐに評価する。パートナーも同じように色々なことを評価する人だった。
最初はとても違和感を感じていた。なんか自分とは違うなーと。
そして、最近自分も判断する人になってきている。その人たちを無意識に見習っていたのだろうし、自分の意見を持つには自分に基づいて評価する事で自分の意見らしいものを持てると気が付いたからだと思う。
判断が正しいとか、熟慮できているとかは別にして、自分なりに咀嚼する(評価する)事が多くなった。
自分が何か情報収集する際にも、ネットでもなんでも、自分の意見(誰かが行っている)は千差万別たくさんあるので、誰がそれを言っているか(記事を書いているか)を気にしている。
この人の意見は面白いから、その人がどんなことを考えているのかわかる記事は気にして読んでいるし、そういうものに触れられるメディアは良くチェックする。(NewsPicksとか)
が、しかし、最近そうすることで自分が自分の感情にとても左右され、それにより疲れることが多いと思うようになった。そのつもりがないのに感情が振れることはエネルギーを消耗する。
なぜ、感情が左右されるのか。
人の評価基準は、それまでの自分が作った価値観に基づく。
では、価値観とはなんなのか。
過去の経験や自分の好みの事だ。
さっき経験や感情や価値観と横並びにしたが、これはMECEではない。ツリーで見れば、価値観の下に経験と感情が横に並んでいるはず。
今入社2~3年目までを思い返すと、なぜこの社長はこんなに感情的なのかと思ったものだった。いちいち一つの事に対してなんでこんなに反応するのかと。(基本的に怒り)反応する理由は、
評価している+評価の価値観が感情に基づいている
からだろう。だから判断と同時に、反射的に感情も伴う。
知らず知らずのうちに、私も常に評価しながら生きるようになっていたという事だと思う。
最近メディテーションというのを読んだ。
正しい解釈ではないかもしれないが、私が大学の頃に持っていたスタンスと近いと感じた。ありのままに受け止めるというあり方。
その方がやはり心は楽なんだと思う。世の中に色々な評価が溢れ、そして高速かつ連続して評価をしていかないと、ビジネスは追いつかなくなっている。
それに疲れた世の中が、メディテーション(瞑想)を表舞台にあげたのだろう。
だからメディテーションは何かを作るビジネスには向いていないと思う。無心に処理するような、世の中の大半の作業には向いていると思う。
やはり、ビジネスで、何かを作る、ということと、処理するというのは、
言葉の定義はかなり曖昧ではあるけども、
全く違う事なんだと思う。
私は確実にメディテーション寄りの方が楽だと思っているけど、立場はずっと作る人寄りだった。
だからいろいろ違和感もあるし、ついていけない部分もあったんだと思う。
だから後は、評価するスイッチをうまくコントロースする事だと思う。
仕事の中でも、自分の立場や今のビジネスのフェーズにおいて、スイッチを切り替える。
そして私は家の中でまで、評価するスイッチは入れたくない。2人の中で評価を繰り返すと、いつかはwe agree to disagreeとなって殺伐とするし、私の本来の志向とは違うから。
しかし、評価しないという評価(判断)をしている。
評価のもっと下層レイヤーは何なんだろうか。
これからそれについて考えてみよう。