明けました。
2016年になりました。
ベタに明けましておめでとうございます。
最初は年も変わったし、2015年の個人的なまとめの記事でも書いてみようかと思いましたが、そうしたら、このブログどれくらい前にやろうと思ったの気になりました。
このブログ、2014年の3月に、どういう風の吹き回しなのか、このブログ始めてたんですね。大小さまざまな記事ですが、何気にもう70エントリーも書いている。1年9ヶ月と考えても、意外とエントリーの数という意味ではある方。(自分比)
しかし思い返すと、このブログを始めた頃は鬱への過渡期ですね。その3ヶ月後には鬱直前まで行き、その後今まで時間をかけてようやく戻ってきたってところでしょうか。
このブログの最初のエントリーを見ると、なんかweb上でのキャラではなく、地でやっていきたいというようなことを息巻いていますが、今となって考えてみると、それはそもそも間違っていたと思います。
自分なんか特に顕著なタイプなのかもしれないですけど、その時々によって自分の出す部分は違いますよ。それは最近腑に落ちた。
よくどこでも同じ自分とか、本当の自分とか言いますが、少なくともそんなこと私にはできないし、本当の自分みたいな大層なものもない。というか、全ての人間がそんなことはできないのではないか。
自分の中には、様々な自分を内包していて、時々によって使い分けているからこそ人間は社会性の生き物なのではないか。
会社での罵声と家庭内での癒しのなさ、というストレススパイラルの中で、世の中の言動に惑わされて、webでも地でいくとか言っていて、このはてなのIDとかも今となれば全然変えたいけど、変えられない仕様みたい。
人間、みんないろいろな悩みを抱えながら、迷いながら生きているのでしょうかね。不惑って何歳だったか。もし30歳ならもう孔子様にはついてけないなり。
何を書いているんだかわからなくなってきましたが、こうやって悩んでいる人の助けに少しでもなれば幸いです。
当初の本題に戻り、2015年をさっと振り返ると、
・自分のタイプを認識した
本当は社会貢献的なことに喜びを感じるタイプ(周りの人間の影響で、自分でこれを否定しようとしていたからおかしなことになっていた)。とはいえ、時によっては先頭に立って目立つのは好き。また大きくなってきたプライドあるいは会社で求められていることだからか。
・良い人が沢山いる
自分は運がいいなー、強運だなと思います。友達も、家族も、会社の人も(個人的には)。
・会社は自分の外の事
最初は会社への嫌悪感から会社を遠ざけて外と思っていたが、それが少し落ち着いてきて自分の悪かった点も思えるようになったら、とてもドライに会社を自分の外のことととして捉えられるようになった。それは楽で、後は丁度良い距離感をどう維持していくか。
・自分のやりたいことをやってみる
まさかこのブログをmacから書く日がこようとは。そういうこと。(この後ごにょごにょ版の後処理が、、)
・農業とか、自然とか好き
会社を嫌悪したために、仕事で携わっていた農業を意識的に遠ざけようとしてきていたが、やっぱしああいう自給的な儲からない感じが好きみたい。
・福祉系+先端技術で何かしたい
これが私のバランスかもしれない。
ざっとこんなことですかね。
働くお母さんは疲弊している
女性の社会進出という背景が、色々なところ(少子化、晩婚化とか)に影響しているというが、
一番の影響が出ているのは、社会の最小単位の家庭だと思う。
子供が出来て改めて分かったが、子供にとって母親の存在はとても大きい。父親も親なのだが、どういうわけか役割が違う。きっと自然と違うんだと思う。
ジェンダー論とかあったと思う。(ちゃんと勉強したことはない)
ジェンダーも、Sexの生物的性とJenderの社会的性に分けて議論される。
私が聞きかじったようなジェンダーは、社会的性に生物的性を押し付けるために、女性の社会進出や社会での正当評価が阻害されるというようなものだったような。事実それはいまだにあると思う。
転職で結婚したての人は敬遠される。理由は子供を産む可能性が高いから。社員に子供産まれてしまったら(会社は本当にこう考えていると思う)、その社員は使えなくなる。(本当に会社ってこういうものだと思う)
そういう意味で、会社ってとても男性的なものだと思う。
会社で活躍できる女性は、いわゆる、おとこ女みたいなタイプで、生涯独身で休業なく働けないと、活躍の場を提供されることも難しい。その上で女性特有の周期的に来る体調不良もディスアドバンテージとして抱えながら、会社で活動しなければならない。
では、家庭と子供を持ちながら、おとこ女でいることは可能か。
多分トレードオフすれば成立可能。
どういうトレードオフかというと、家庭における女性の関わりを大幅に減らす(育児、家事全般)事で、会社に時間を当てること。
その上で、家事と、育児のルーティンの部分を、男性か外部にアウトソースする。(男性にアウトソースというのは前提が男尊女卑的で良くないですね)外部アウトソースが難しい場合は、男性はおそらく活躍の場は与えてもらえなくなるくらいはやらないとダメ。少なくとも会社という極めて男性向けな組織においては。(場は会社組織以外の仕事の場にもあるはず)
あるいは、子供はまあご飯食べれば良いくらいにしておいて、その分仕事に充てる。
しかし、ここで思うのが、冒頭に戻るが、
子供がいる家庭(社会)にとって、女性の生物的要素の関与を減らすことは、とても困難だと思う。
子供にどういう影響を与えるかも問題になる。子供における母親(女性)の重要度は、定量的に言えないが、実感としてとても大きい。本当に子どもはご飯食べてればよいくらいで良いのかという。
その重要さを果たすは、子供に接する時間、またその時間における母親の気持ちの余裕、が必要。
母親が気持ちの余裕を持つには、単純に接するのに必要最小限な時間だけではなく、余裕をもてる時間のマージンも必要になる。
子供に限らず機械的にだけ接していては相手は満足しないだろう。極端な表現ではあるが、笑顔なのか、無表情なのか。笑顔になることは、誰でもできる簡単なことではない。
だからマージンの時間も必要となる。(男こそ、マージンないとうまく切り替えられない適合性、柔軟性の低い生き物のはず)
この母親に求められる役割や時間は、もはや性差(生物的)であって、男性とのあらがえない違いだと思う。
男女雇用機会均等法が本来女性が求めるものでは全くなかったというのは、こういう事なのではないだろうか。
しかし、それを知らずに社会に進出した女性は、きわめて男性的な組織である会社での活躍という楽しみを覚え、家庭を持つこと、母親になって会社で活躍できなくなることを疎ましく感じる。女性であることに不満を感じるようになる。
だから自分が会社で活躍することに理解の無い男性とは結婚したいと思わないし、子供も作らなくなる。
今日ランチの時に隣の女性が、あの男性の××な仕事の能力欲しいわーと言っていた。
しかし、能力の多さという意味で言うと、腕力があまり重要視されなくなった現代では、女性の方が男性より能力は多いと思う。出産という決定的な能力の差もある。
性差ってとても大きく、今の男性的な組織と仕組みでは吸収しきれないものが多分にあると思う。しかし、女性の方が能力はあるし。
世の働くお母さんはみんな疲弊している。男と女にならないといけないから。
今の枠組みとは違う方法を考えて実行まで移さないと、この状況は変わらない。
評価と瞑想
物事をどういう風に受け取っているか。受け取り方によってどこに影響が出るか。
私は気が付いたら、入ってくる色々な情報について自分で評価をした上で受け取るようになっていた。
学生時代にはなかった。むしろ評価せずにそのまま受け取ろうとしていた。自分では評価できるとも思っていなかったし、評価することはおこがましいとも考えていた。他所の事は他所の事で、自分には関係ない他人の事についてあーだこーだと良し悪しを評価して話をするのは失礼だと考えていた。当人がやっていることに対して当人が納得しているんだろうし、当人は実は納得できていなくてもその人なりの背景があってそうなっているのだから、外野がどうこう言うのは意味がないことだと考えていた。
そして社会人になった。
色々なことで評価して自分のスタンスはこうだ、と定義した上で話しをする人がほとんどで、特に強烈に判断する人の傍にいた。良し悪しを、自分の経験と感情と価値観によってすぐに評価する。パートナーも同じように色々なことを評価する人だった。
最初はとても違和感を感じていた。なんか自分とは違うなーと。
そして、最近自分も判断する人になってきている。その人たちを無意識に見習っていたのだろうし、自分の意見を持つには自分に基づいて評価する事で自分の意見らしいものを持てると気が付いたからだと思う。
判断が正しいとか、熟慮できているとかは別にして、自分なりに咀嚼する(評価する)事が多くなった。
自分が何か情報収集する際にも、ネットでもなんでも、自分の意見(誰かが行っている)は千差万別たくさんあるので、誰がそれを言っているか(記事を書いているか)を気にしている。
この人の意見は面白いから、その人がどんなことを考えているのかわかる記事は気にして読んでいるし、そういうものに触れられるメディアは良くチェックする。(NewsPicksとか)
が、しかし、最近そうすることで自分が自分の感情にとても左右され、それにより疲れることが多いと思うようになった。そのつもりがないのに感情が振れることはエネルギーを消耗する。
なぜ、感情が左右されるのか。
人の評価基準は、それまでの自分が作った価値観に基づく。
では、価値観とはなんなのか。
過去の経験や自分の好みの事だ。
さっき経験や感情や価値観と横並びにしたが、これはMECEではない。ツリーで見れば、価値観の下に経験と感情が横に並んでいるはず。
今入社2~3年目までを思い返すと、なぜこの社長はこんなに感情的なのかと思ったものだった。いちいち一つの事に対してなんでこんなに反応するのかと。(基本的に怒り)反応する理由は、
評価している+評価の価値観が感情に基づいている
からだろう。だから判断と同時に、反射的に感情も伴う。
知らず知らずのうちに、私も常に評価しながら生きるようになっていたという事だと思う。
最近メディテーションというのを読んだ。
正しい解釈ではないかもしれないが、私が大学の頃に持っていたスタンスと近いと感じた。ありのままに受け止めるというあり方。
その方がやはり心は楽なんだと思う。世の中に色々な評価が溢れ、そして高速かつ連続して評価をしていかないと、ビジネスは追いつかなくなっている。
それに疲れた世の中が、メディテーション(瞑想)を表舞台にあげたのだろう。
だからメディテーションは何かを作るビジネスには向いていないと思う。無心に処理するような、世の中の大半の作業には向いていると思う。
やはり、ビジネスで、何かを作る、ということと、処理するというのは、
言葉の定義はかなり曖昧ではあるけども、
全く違う事なんだと思う。
私は確実にメディテーション寄りの方が楽だと思っているけど、立場はずっと作る人寄りだった。
だからいろいろ違和感もあるし、ついていけない部分もあったんだと思う。
だから後は、評価するスイッチをうまくコントロースする事だと思う。
仕事の中でも、自分の立場や今のビジネスのフェーズにおいて、スイッチを切り替える。
そして私は家の中でまで、評価するスイッチは入れたくない。2人の中で評価を繰り返すと、いつかはwe agree to disagreeとなって殺伐とするし、私の本来の志向とは違うから。
しかし、評価しないという評価(判断)をしている。
評価のもっと下層レイヤーは何なんだろうか。
これからそれについて考えてみよう。