この1年半で思うこと

非建設的なことを承知で、自分の備忘録として。

この1年半で新たに思うようになったことがあります。

それは、親の虐待やネグレクトによる、子供の死に対する、憤りです。

親になって1年半。
まだまだ若輩ではあるのですが、上記に関するニュースを見るたびに、心が締め付けられる思いを経験します。

なぜそんなことができるのか。
今ニュースで取り上げられている5歳の男児が亡くなった殺人事件もそうです。
これは殺人事件です。

パパ、パパとか細い声で助けを求めながら、立てなくなるほど衰えた身体で、電気も通っていない部屋で、一人孤独に殺された男児。
こうなっていることがバレることを恐れ、その場から逃げた父。その場に1時間もいれなかったなどとニュースでは記述されている。

心から憤りをおぼえる。母親にも問題がある、何故幼子を見捨てられるのか。

全く理解出来ない。


私が、今、ふと、なんでもない瞬間でも考えることは、自分の子供にとって一番良いこと、愛を感じられることは何かと言うことだ。

子供のためを思えば、別に今の仕事には全く未練も何もない。今の仕事など糞食らえだ。子供がちゃんと無事に成長できるために必要な収入(つまり自分も食べれることは大事)が得られれば、今より所得が減ることは何も問題に感じられない。

むしろ、それが出来るためにはどうすれば良いのか。

最低限の収入と、子供と過ごす時間を確保するにはどうすれば良いのか、その点だけを必死に考える。

これは今の自分の環境が惰性で働いていることを自分で認識している部分もあるから、こう敢えて記述しておく。


私は恵まれた環境にずっとある。

それは私の親が頑張ってくれたからだ。自分も親となった今、感謝の念は尽きない。どうすればこの多大な恩を返せるのかと途方に暮れる。立派に学校を出させてもらったし、色々な自分の甘えにも答えくれた。つまり、自分の親がそれだけ自分に時間と金を注いでくれた。


自分が親になったからこそ思うのは、それと同じだけの愛を注いであげたい。自分がしてあげたことに気づいて欲しいのでは無い。

いつの日か、子供が他人に愛を捧げることの素晴らしさに気づいてくれれば良い。

大前提に、ちゃんと育て上げることだ。ご飯を食べさせてあげる環境を維持し、殺害された5歳児のように最後に親を求めながら殺されるような、そんな悲惨な思いは絶対にさせまい。


経済的な意味での仕事の維持もだが、それ以上に自分の健康もとても大事だ。自分が働けなくなれば、ただの負担でしか無くなる。


大事だと思うのは、自分を捨て、子供にとって良いことを、行動することだと。

自分を捨て、などと言うと、それは自己満だ、ナルシストだ、と言う話になりがちな世の中だと思う。今の世の中はとにかく自分が大事な世だからだ。自分が大事だと素直に認めることが潔い、という風潮だと思う。

それは一つの心理だとも思うし、一方で他我の境地での無償の愛というの真理だと思う。どちらも必要なのだ。


一見、相反するようにも見えるが、その両方を兼ねることが、実は中庸なのだと、私は理解している。